昭和49年12月13日付 

干し柿のうまさ<

あげ底にされた入れものは、そとから見て中身が沢山あるように思わすためである。このごろは、クツの底にも五センチほどの厚さを加え、あげ底にしているものを見うける。それだけ身長が高くなる理屈であるが、ずいぶんと歩きにくいことであろう。

大阪弁に「下駄(げた)をはかす」という表現がある。底に何かを加えて高くする意味であるが、この底の厚いクツは正に「クツにゲタをはかしている」ことになる。

あげ底にしたクツをはき、道でぐぜって足首を痛めた話を聞く。年よりが危ないと注意していたのに、やはりケガをしている。

ズボンのうしろポケットにお金を入れては危ない。「オイ、気をつけろ。そこはやめといた方がよい」と注意をする。それを聞き流して、やっぱりスリとられている。注意する方は「自分も前にやられたことがあるので」ということばを省略しているのである。

言われた方も、顔をしかめて「ウルサイ、わかっているワイ」と思わずに、省略されたことばを想像してニヤリと笑えばよろしい。

私が父に夜、おやすみとあいさつすると、いつも「火の用心と戸締まり」と言われる。出かけるとき「行ってきます」と言うと「紙とハンカチ」と言われる。言われなくてもわかっていると思ったものであるが、私も同じように娘にいっていたのであろうか、その娘が孫の出かけに「紙とハンカチ」と言っているのを聞いて、お互いに身体の中にしみこんでいるものだなァと感嘆した。永い年月かかって、今も続いているわけである。 

この間「年よりにもっと聞いとけばよかった」と嘆いている人があったが、本に書いてあっても、も一つ得心がいかなかった事を、ホンの一言聞かしてもらったおかげで、その世界が開けた経験が私にもある。

しぶ柿(がき)の皮をむいて軒先につるす、その名前も干し柿になったころには独特の甘さになっている。この味はまた格別で口ではいえない、食べてもらわねばわからん。「時間の経過」が不思議に作用するものですなア。

これと同じように長い間かかってようやくわかることがある。それを若い時には、すぐ簡単に結論をいそぐので、とてものことに思いが底まで到達しないのであろう。即席ラーメンで万事OKというわけにはまいらぬ。

映画でも何時間か、ともかくその映画を見なければわからん。映画館の前に立っただけでその映画がわからんと嘆くのは、それはご無理というものである。わからんのが当たり前。本も読まねばわからんのと同じである。

物事を「つまらん」とか「わからん」とか簡単に入り口であきらめないように、そんなときは心の戸棚(だな)の引き出しに大切にしまいこんで、ゆっくり時間をかけて温めるのですネ。干し柿をたべながら、独りでこんなことを思いました。

(写真家・ハナヤ勘兵衛)