昭和49年11月1日付 

ものさしをかえよう

香港の人がカメラをつくりたいと、私の友人Mを訪ねてきた。日本ではカメラの部分品をそれぞれ分業でやっているので、とても香港でつくるナドは無理である、やめときなさいと友人Mが言った。

ともかく、その部分品をつくる所を見せてほしいと望まれて、東京のアチラ、コチラと案内した。

日本のメーカーは富士山の頂上を目標に、香港の私の方は富士山の裾野(すその)の方を目ざしてつくりますと始めからハッキリしているのである。

そのうち何回かM氏も香港まで出かけることになった。結局香港でつくったカメラが世界の各地へ出回っているが、M氏いわく「スケールが違うのです。工場を大きなビルにして、ビルの上の方に従業員を家族ぐるみ住まわせている。お年寄りもお嫁さんもそれぞれの仕事に合わせて働いてもらうわけです。日本のように男一人だけが通勤して家族手当、住宅手当、残業手当などと言っているのと大違い」。

さて私は単におとなりの花は赤いと感心しているのではないが、我々の方も近ごろは身辺諸事万端、心忙しくなっている、このさい別の角度から発想のものさしをかえてみたい。

この節は衣食ともユーザー(消費者)のためになるもの、そしてそのことでメーカーも生かされている相互関係が、段々うすくなってゆくように感じられる。つくる人が都合の良いようにつくることが優先して、買う方のことは後回しである。少しでも高く売れるように、少しでももうけが多くなることだけに努力しているのが見えすいて、味気ないことになっている。

特に飾りたてたり、容器だけ立派らしくしたり、一つ一つ包んだりして、中身はまずいとなったら、もの寂しいことである。どこの何さまが何されるのか、何ごとも中身が大切なのだが・・・。

さて、我々はこれらが今の時代なのだといってはおれない。そんな時代はもう前の時代であって、これから先の時代を我々がつくってゆくのである。

物価があがりあがってとてもついてゆけなくなる。物はあってもそれを買えなくなるのは、物がないのと同じ現象だ。五十年前はどうしてがん張ったか。三十年前お金があっても何の役にも立たず(仮に馬に食わすほどあったとしても、馬も食わない)お金が物と交換できない。お米がなくなり、大豆、芋を食い、それも危なくなった。エレベーターはあっても動かず八階まで歩いて上がり、タクシーはなく皆がどんどん歩き、病気になっている暇もなかった。すべての物が段々乏しくなり、余分のものは切り捨てて生きるためのぎりぎりの生活であった。やはりこのときは心をピーンとはりつめなんとか非常時を乗り切ったといえるのではなかろうか。

ドルショックから石油ショックと続き、このごろのように世界変動のはげしいとき、今まで日本で流行してきた“ものさし”をやめ、くらし方全般を念入りに検討して、心の持ち方、考え方の、“ものさし”を一段と豊かに雄大に切り替え新しい時代をつくりたいものである。    

(写真家・ハナヤ勘兵衛)